良い子の絵
Pcture of good children
2019
Pencil on paper
Installation
この展示でわたしが何をしているのかを説明するために、まず、わたしが何をしていないのかについてお話ししておきたい。
第一に、わたしはわたしの絵の授業を受けた小学生からわたし宛に送られてきた手紙を展示していない。わたしは美術教育にお ける最高学府であるところの東京芸術大学に在学する絵画のプロフェッショナルとして例年某市数カ所の小学校で絵の授業を行っていて、たまにこのような「感謝の手紙」を受け取ることがあるが、今展示してある手紙はそれらを模倣してわたしが制作したもので、見た目はほとんど変わらないものの、人名は架空であるし、明治期近代学校制度の基礎が形作られた頃生まれた練成小学校というのも今は存在していない。
第二に、わたしや担任教師は小学生に無理やり手紙を書かせていない。手紙の内容はあくまで小学生たちが自主的に書いたものを模倣しており、その自発性は誰にも否定できるものではない。
第三に、わたしは絵の授業で小学生に描くべき正しい絵を強要していない。一般的に小学校おける図工の授業では描くべき絵をある程度想定して絵を教えることが多く、生徒自身「何を描けば正解なのか」ということに留意して制作を行うが、わたしの授業ではそのような指導は極力避け、彼らが描きたい絵を率先して描かせるようにしている。
第四に、同時にわたしは彼らが描きたい絵を描かせていない。というよりも基本的に表現欲求とは伝えたいのに伝わらない、という体験から生まれるものであり、多くの小学生はそのような経験がないので、描きたい絵など基本的にはない。
第五に、わたしや小学校教師や保護者は彼らに「悪い子」になって欲しいと思ってはいないが、「良い子」を演じて欲しいとも思っていない。しかし彼ら自身、自分が良い子を演じているかどうかの判断はできないし、彼らがわからない以上わたしたちにもわからない。
第六に、この作品はわたしが自主的に制作したものであり、鑑賞者の提案や助言を基にしていない。美術作品とはあくまで作家の強い能動性から生まれるものであり、誰かに作らされるものではない。
第七に、女性は自身の社会的存在価値を男性からのまなざしを観察することで形成しない。イイオンナを装うことは甚も前時代的行動である。
第八に、我が国は彼の国の顔色をうかがったりはしない。もはや戦後ではないのだ。
第九に、この世界には暴力的な支配などない。飢餓や差別や戦争も、いじめも、搾取も、どこにもない。 これを読むあなたの日常にだって。